本書には、著者の有野真麻(ありのまーさ)氏が「急性心不全」という病気に向き合い、回復を遂げるまでに体験した「悟り」の物語が書かれています。
その中で、有野氏が感じ取った「悟りゲート」と呼ばれるエネルギーの根源に関する考察や、「悟りゲート」を開くための氣功法である「楽禅ヨガ」についても説明されています。
著者独自の理論と体験が融合し、「悟り」に至るまでの道のりが描かれているのが本書です。
この記事では、『天岩戸「さとりゲート」をひらけ!悟りを体得。』を読んだ感想をまとめました。
『天岩戸「さとりゲート」をひらけ!悟りを体得。』の情報
- 著者:有野真麻 、監修:白峰
- 出版社:ヒカルランド
- 発売日:2024/8/1
- 単行本(ソフトカバー):208ページ
Source:ヒカルランド
「悟りゲート」とは?
本書に登場する「悟りゲート」とは、著者の有野真麻氏が「悟り」経験をもとに発見した独自の概念です。
有野氏は、兵庫県の淡路島にある天照大神を祀る「岩戸神社」に訪れた際に、腹部のある一点から、天地を突き抜けるほどのエネルギーを感じたと語ります。
そして、この一点を「聖なる中心」=「悟りゲート」と命名しました。
また、有野氏は「楽禅ヨガ」と呼ばれる氣功法の創始者であり、この「楽禅ヨガ」を実践することで、「悟りゲート」から強大なエネルギーを引き出し、体内に循環させることができるそうです。
本書では、「悟りゲート」発見に至るまでの有野氏の体験や、「楽禅ヨガ」の心得についても書かれています。
ゼロと無限とスピノザの神
本書によると、悟りゲートは「身体の奥にある宇宙という実在につながる扉(=聖なる中心)」であり、これは「面積ゼロの中心」であると説明されています。
たとえば、下のような半径rの円があるとします。
この半径rを限りなく0に近づけるとき、円の面積(\( \pi r^2 \))を数式で表すと以下のようになります。
$$ \lim_{r \rightarrow 0}\pi r^{2}=0 $$
つまり、円の面積は0に収束します。
逆に、半径rを限りなく無限に近づける場合は、円の面積は無限に発散します。
$$ \lim_{r \rightarrow \infty}\pi r^{2}=\infty $$
ぞれぞれのイメージを図に表すと、以下のようになります。
これらの操作を通して、有野氏は次のことに気がつきました。
ここで、不思議な一致に氣づくことでしょう。境界線が無くなったときがゼロであり、かつ、無限ということは、ゼロ=無限ということになります。
有野真麻『天岩戸「さとりゲート」をひらけ!悟りを体得。』P.119-120
ゼロは何も無いということではなかったのです。
ゼロは無限でもあった……。
そのゼロから、無限の知恵や能力、ヒト、モノ、カネも、現れてくるのです。
実際には、円の面積の極限値は「r → 0」の場合は「0」となり、「r → ∞」の場合は「∞」となるので、「ゼロ=無限」という結果にはなりません。
しかし、有野氏は極限の話ではなく、「円周」という境界線を取り除くことにより、ゼロと無限の同一性について主張しています。
つまり、「円周」という内側と外側を分ける境界線を取り除いたとき、そこには「何もない空間(=ゼロ)」が現れるのと同時に、「すべてが存在する空間(=無限)」が広がっていることになります。
私はこの「ゼロ=無限」のお話を読んで、スピノザの「汎神論」を思い出しました。
「汎神論」とは、一言でいうと「神は無限である」という考え方です。
『NHK100分de名著 スピノザ「エチカ」』では、次のように説明されています。
スピノザの哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方です。無限とはどういうことでしょうか。無限であるとは限界がないということです。ですから、神が無限だとしたら、「ここまでは神だけれど、ここから先は神ではない」という線が引けない、ということになります。言い換えれば、神には外部がないということです。というのも、もし神に外部があったとしたら、神は有限になってしまうからです。
スピノザの考える「神」とは – NHKテキストビュー|BOOKSTAND
たとえば、人間の場合は、自分の身体を境界として「内側」と「外側」が存在します。
しかし、神の場合は、神の「内側」と「外側」を分ける境界線を引いてしまうと、その外側には神の力が及ばないことになり、神は全能ではなくなってしまいます。
神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。
スピノザの考える「神」とは – NHKテキストビュー|BOOKSTAND
(中略)
すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを「神即自然」といいます
つまり、「神は無限」であり、我々を取り囲んでいるこの世界(自然や宇宙、物理法則など)を「神」と考えるのが、スピノザの「汎神論」です。
この広大な宇宙における「中心とは何か」については意見が分かれるところですが、それを個人が任意に設定することは可能です。
そう考えると、有野氏の言う「悟りゲート」も「神の中心」に相当するといえるのかもしれません。
有野氏の考える「悟り」とは?
本書の後半で、有野氏は次のように語っています。
もし人間がこれほどまでにかよわい存在でなかったら、世の中に思いやりなんて必要なかったし、存在もしなかったでしょう。弱さは憎むべきもの、克服すべきものではなかったのです。弱さを忘れたとき、私たちはもっとも冷淡な人間でいられるのだと思います。
有野真麻『天岩戸「さとりゲート」をひらけ!悟りを体得。』P.190
そして、文章は次のように続きます。
もし、神さまがいらっしゃるとすれば、神さまこそ、宇宙でもっとも無力な方なのです。
有野真麻『天岩戸「さとりゲート」をひらけ!悟りを体得。』P.190
もっとも無力な方であるからこそ、神さまは思いやり、優しさ、慈しみといった美しい心をもっともお持ちなのです。
絶対的な力を持つはずの神が「無力」であるという考え方は、前述した「ゼロ=無限」という主張とも重なるところがあります。
そして、絶対的な神とは違って、欠陥があるのが当然の我々人間にとって「自分は、弱くて無力な存在である」ことを受け入れることは、一種の安心感をもたらします。
悟りとは、根なし草のように頼りなく、無力な自分に落ち着くことなのです。
有野真麻『天岩戸「さとりゲート」をひらけ!悟りを体得。』P.193
これが、有野氏が至った「悟り」の極致でした。
まとめ
今回は、献本としてご恵贈いただいた有野真麻氏の『天岩戸「さとりゲート」をひらけ!悟りを体得。』の書評(感想)を書かせていただきました。
本書には、今回ご紹介できなかった「悟りゲート」に関するエピソードがまだまだあります。
興味がある方は、ぜひ手に取って読んでみてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
(ご質問・ご感想はこちらからどうぞ)