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【考察】『リリイ・シュシュのすべて』に登場するエーテルの意味とは?

映画
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映画『リリイ・シュシュのすべて』に登場するエーテルという概念。

Wikipediaには「リリイファンにとって感性の触媒、精神を満たす特別なオーラのようなもの。」と書かれていますが、いまいち意味をつかむことができません。

そこで本記事では、映画『リリイ・シュシュのすべて』の内容を踏まえて、「エーテルとは何か?」について考察してみました。

以下の内容は、映画『リリイ・シュシュのすべて』のネタバレを含みます。ご注意ください。

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全体の感想

『リリイ~』を見た全体の感想は、こちらの記事に書いています。

「エーテルとは何か?」については、上の記事の最後で触れる予定だったので、こちらもあわせて読んでいただけると理解しやすいかもしれません。

エーテルとは何か?

前回の記事でも述べたが、『リリイ・シュシュのすべて』のテーマは“エーテル”だと思う。

では、エーテルとは何か?

私の考えでは、エーテルとはその人だけに存在する感動を呼び起こすものだと思う。

これを踏まえると、「全ての人が感じ取れる普遍的な”エーテル”は存在しない」と言うこともできる。

このような考えに至った理由をこれから書いていきたい。

一個人の意見として読んでいただけますと幸いです。

《彼女の名前、》
《“リリイ・シュシュ。”》
《天才。》
《というより、》
《宇宙。》
《エーテルの具現者。》
《投稿者:フィリア》

映画『リリイ・シュシュのすべて』より

冒頭でタイピングされる文章を読んで、「エーテルかぁ……」と私は思った。

エーテルは、光を波だと考えたときに仮定される媒質のことである

たとえば、海で波が発生するには、波を伝える媒質として水が必要となる。

音が伝わるには、その媒質として空気が必要となる(空気が振動することで、音は人間の耳まで伝わる)。

これらと同様に、もし光も波の一種だとしたら、それを伝えるための媒質が必要となる。太陽光は空気がない宇宙を通過して地球まで届くわけだから、空気は光を伝える媒質ではない。では、光を伝えている媒質は何か?

この問いに明確な答えを出すことができなかった科学者は、光を伝える媒質をとりあえず「エーテル」と呼ぶことにした。そういうものが存在すると仮定して、光の波動説の研究を進めた。

しかし、現在の理論では、光の媒質としての「エーテル」の存在は否定されている光は真空中でも伝わることが確認され、その正体は電場と磁場の相互作用によって伝わる電磁波であることが知られている。

《エーテルとは、かつて、》
《光の伝播を媒介する媒質として、》
《この世の中を満たしていると、》
《信じられていた物質。》
《投稿者:くま》

映画『リリイ・シュシュのすべて』より

これが、中盤で明かされる「エーテル」の本来の意味である。

しかし、リリイのいう”エーテル”はこれとは違うものらしい。

《でも、リリイのいうエーテルは、》
《感性の触媒とでもいうべきもの。》
《そこらへんは、》
《フィリアさんが一番詳しいで。》
《投稿者:パスカル》

映画『リリイ・シュシュのすべて』より

エーテルとは感性の触媒

この「触媒」という言葉は「媒質」と似ているが、両者の意味は異なる。

「媒質」とは「何かを伝えるもの。何かと何かの間にある存在」

「触媒」とは「何かを変化させたり、何かを生み出すのを促進する存在」

この両者の違いを踏まえて、私はエーテルとは「自分の周りに存在するもの」ではなく、「自分の中に存在するもの」なのではないかと思った。

岩井監督のインタビューにて

こちらのYouTubeの動画で、岩井監督が「映画に出てくる”エーテル”という概念はどういう意味でしょうか?」という視聴者の質問に回答する場面がある。

「非常に難しいですね」と前置きしたうえで、岩井監督は次のように語る。

例えば映画を観たり、音楽を聴いてて、なんかこう感動するんだけど、その感動をうまく説明できないっていう事があると思うんですよね。なぜ自分はこの事に感動するんだろうっていうのがうまく説明できない、何か。夕方の綺麗な景色を見て感動するのに似ているような、何かだと思うんですけど。それを表現したくて、こういう世界に飛び込んだってのもあったんで、自分の中にも何かあったわけですけど、それを敢えて言葉にしてみたっていう(後略)

#04 《リリイ・シュシュのすべて》“エーテル”ってどういう意味?/台湾上映記念 Online Event – YouTube

映画や音楽、夕方の綺麗な景色。その他の様々なメディア(媒質)を通して、自分の内側で湧き起こる感動。

自分が感動していることは分かるけど、なぜ感動しているのか、何に感動しているのかは、言葉ではうまく説明ができない。

自分の中にある感動を呼び起こす何か。感性の触媒。そういうものがあると仮定して名付けられた存在。それが”エーテル”

上のエーテルの質問に対する岩井監督の回答には続きがある。

ただ、この話の中ではそれを必ずしも良いニュアンスで使っているわけでは無くて、そういう定義をする事によって起きる分断、人間、仲間同士の分断とか、変に却ってギクシャクしちゃう事だったり、マイナスの面も含めて、描くためにわざわざ言葉にしてみたっていう、そんな気がするんですけど。

#04 《リリイ・シュシュのすべて》“エーテル”ってどういう意味?/台湾上映記念 Online Event – YouTube

エーテルという概念は、リリイファンの間では共通の認識とされている。

しかし、同じリリイの曲を聴いてもファンによって感動の仕方は違うし、好みが分かれるのは当然である。

リリイの音楽を聴いて、各々が異なる感じ方をしているにもかかわらず、それを”エーテル”という共通語を用いて、互いに理解し合った気になっている。

だから、エーテルの定義が自分と違うとわかると対立が生まれるし、たとえ同じ感覚を共有していたとしても、必ずしも相手とわかり合えるとは限らない。

自分の感性も、感動も、感情も、人それぞれなのに、それをいつも忘れてしまう。

エーテルは自分の外側にあるのではない。自分の頭の中にだけ存在している。

エンディングの田んぼの真ん中でリリイの音楽を聴く彼らの様子は、頭の中をリリイのエーテルで満たしているように見えた。

現実(リアル)が入ってこないように、自分の叫び声すら聞こえないように、耳をふさいで。

《「私はここにいるの。」》
《そう叫びたくて、》
《これを書いてるのかも知れない。》
《投稿者:パルステラ》

映画『リリイ・シュシュのすべて』より

この言葉を最後に、映画『リリイ・シュシュのすべて』は幕を閉じる。

まとめ

以上が、映画『リリイ・シュシュのすべて』のエーテルについての考察である。

光を媒介する「エーテル」という存在が否定されている以上、リリイのいう”エーテル”も虚構のように感じてしまう。

もし”エーテル”が存在して、リリイを通じて人と人とが繋がることができるなら、雄一と星野はわかり合うことができたのではないか。津田は飛び降りずに済んだのではないか。

相手のことを全て知ることはできない。友達なんてのも、所詮は幻想なのかもしれない。

でも、誰かから何かを受け取って、それに感動できる自分がいる。

自分の内側から湧き起こる感動。それは他の誰のものでもない、自分だけのものだ。

エーテルは、その人の中にだけ存在する。

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