第164回芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』は、こんな書き出しで始まる。
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』P.7
まだ詳細は何ひとつわかっていない。
本書を最後まで読んで、そして再びこの書き出しに戻ってきて、私は思った。
『推し、燃ゆ』はミステリー小説だ。
それも「読者への挑戦状」的なやつ。
なぜなら、本書の最大の謎である「なぜ推しはファンを殴ったのか?」が、最後まで明かされないのである。
これは、読者にこの謎を解明することを求めているのではないだろうか。
もちろん、真相はわからない。きっと、未来永劫わからないだろう。
主人公のあかりもそう言っている。
しかし、今回はあかりに代わって、私が”推し”を解釈してみようと思う。
「推しのみぞ知る」世界を、なけなしの想像力を働かせて覗いてみるとする。
『推し、燃ゆ』の情報
- 著者:宇佐見りん
- 出版社:河出書房新社
- 発売日:2023/07/26
- 文庫:168ページ
Source:河出書房新社
なぜ推しはファンを殴ったのか?
結論から言うと、推しがファンを殴った理由は、以下の通りだと思う。
推しはファンの女性に住所を特定され、婚約者がいることを知られてしまった。そのファンの女性が婚約者に何かしらの危害を加えようとしたため、婚約者を守ろうとして、推しはファンを殴った。
私がこのように考えた理由が、以下の5つである。
- 推しのリポーターへの返答「まあ」についての考察
- あかりが知る「推しの性格」
- 引退発表後の推しの住所特定
- 推しの同棲疑惑と婚約指輪
- なぜ主人公は「推しがファンを殴ったこと」を解釈しなかったのか?
これから一つずつ検討していきたい。
推しのリポーターへの返答と、あかりの考察
本書の冒頭で、推し(上野真幸)がファンを殴った事件について、リポーターから質問される場面がある。
「反省しているんですか」と怒鳴るようなリポーターの声が掛かる。振り向いた目が、一瞬、強烈な感情を見せたように思った。しかしすぐに「まあ」と言った。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』P.22
この推しの「まあ」という返答について、あかりは次のように考察している。
推しは「まあ」「一応」「とりあえず」という言葉は好きじゃないとファンクラブの会報で答えていたから、あの返答は意図的なものだろう。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』P.22
あかり曰く、推しは「まあ」という言葉は好きではないのに、リポーターの質問には「まあ」と答えていた。
これは推しの本心を表した言葉ではなく、事務所との打ち合わせなどであらかじめ「他者によって意図された」返答であると、あかりは考えている。
一方で、推しはリポーターに対して「強烈な感情が込められた眼」を一瞬見せており、こちらが推しの本心だったと考えられる。
そのように考えると、推しは今回の事件について「反省はしていない」ということになる。
あるいは、ファンを殴ったことに対しては反省しているものの、その他に「殴ったことを正当化できる理由」があったとも考えられる。
この「殴ったことを正当化できる理由」について、次に考えていきたい。
あかりが知る「推しの性格」
あかりの解釈では、推しがファンを殴るなんてことはあり得ないはずだった。
今回の事件を踏まえて、あかりは推しの性格を次のように述べている。
今回の件は例外だった。知る限り、推しは穏やかな人ではない。自分の聖域を持ち、踏み入られると苛立つ。それでも湧き上がった感情を眼のなかに押しとどめて、実際には見苦しい真似はしない。我を忘れることはないし、できない。他人とは一定の距離をとると公言する推しが、どれほど気に障ることを言われたところで、ファンを殴るとは思えなかった。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』P.29-30
ここで重要なのは、最後の「どれほど気に障ることを言われたところで、ファンを殴るとは思えなかった」という部分である。
あかりの解釈を前提に考えると、今回の事件が起こったのは「気に障ることを言われる以上のことをされたから、ファンを殴らざるを得なかった」ためだといえる。
それは「自分に対して何か言われること」以上に、「自分の聖域に踏み入れられた」ことに対する苛立ちから来るものだったのではないだろうか。
推しにとっての「聖域」が何かは現時点で不明であるが、「推しにとって大切なものが傷つけられた」という解釈で相違ないと思う。
この「大切なものが傷つけられた」というのが、ファンを殴ったことを「正当化できる理由」に当たるのかもしれない。
引退発表後の推しの住所特定
推しが芸能界引退を発表したときに、左手の薬指に指輪をしていた。そこから「婚約疑惑」が噂されて、再び炎上していた。
そして追い打ちをかけるように、推しの住むマンションが特定され、SNSに晒されてしまう。
住所特定までの経緯は、以下の通り(本書P.127より)。
- 一般人が「数か月前に配達に行ったら上野真幸がいて驚いた」というストーリーを投稿
- すぐに削除されたがスクショが出回り、まずは配達員の住んでいる地域が特定された
- 昨日のインスタライブで映り込んだ窓の外の景色から、推しのマンションが特定された
この情報を整理すると、まず一般人(配達員)の投稿によって大まかな地域が特定されて、インスタライブの配信で推しの住むマンションが特定されたという流れになる。
配達員のストーリーがいつ投稿されたかは不明であるが、仮に「推しがファンを殴る事件が起こる前に投稿されたもの」と考えてみる(かなり都合の良い仮定であることは重々承知)。
すると、推しのマンションが特定されるずっと前から、「推しが住んでいる地域」を特定することは可能だったといえる。
つまり、掲示板の特定班が推しの住所を特定するよりも前に、推しのファンが配達員の投稿から「推しが住んでいる地域」を特定できたことになる。
このことから、推しのファンが「推しが住んでいる地域」を特定し、推しの聖域(=プライベート)に踏み入ってしまったことが、今回の事件の発端であったとは考えられないだろうか。
推しの同棲疑惑と婚約指輪
推しのインスタライブの数日前に、あかりは駅の売店で「まざま座・上野真幸 謎の20代の美女と同棲? ファン離れ加速」という記事を立ち読みし、同棲疑惑について知る。
これに加えて、インスタライブで映り込んだ「くまのぬいぐるみ」に違和感を覚える。あかりの記録によると、推しはぬいぐるみが苦手なはずだった。
この辺りから、推しの「婚約者」の存在がほのめかされる。
何より決定的なのが、記者会見で見せた左手の薬指の指輪だった。隠そうとする様子もなく、ファンへの無言の報告とも受け取れる。
そしてこの後、推しは再び炎上し、住所をSNSに晒されてしまう。
一般人として見守ってくれ、と言った直後に特定されるのはさすがに不運だった。きっと会おうと押しかけるファンが出てくるだろう。もし婚約者も一緒に住んでいるのなら、推しだけでなくその人が何かしらの危害を加えられる可能性もある。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』P.127-128
この時点で、あかりは推しの婚約者がファンに危害を加えられる可能性について言及している。
私の想像では、あかりはこの時点ではすでに「なぜ推しはファンを殴ったのか?」の答えにたどり着いていたのではないかと思う。
もしかしたら、それよりもっと前に気づいていたかもしれない。しかし、その可能性をファンとして直視することができなかった。
推しには、ファンよりも大切な人がいるという可能性。
つまり、あかりは「推しがファンを殴ったのは、婚約者を守るため」だと、最初から気づいていたのではないだろうか。
なぜ主人公は「推しがファンを殴ったこと」を解釈しなかったのか?
主人公のあかりは、推しに関する膨大な情報をノートに記録し、推しが見ている世界を解釈することを生きがいにしていた。
あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』P.24
そんなあかりが「推しがファンを殴った」という衝撃的な事件について解釈しないはずがなかった。
「なぜ推しはファンを殴ったのか?」
しかし、あかりはこの問いについて考えることを、1人のファンとして避け続けた。
そして最終的に、その真相を「わからない」と諦めてしまう。
なぜ推しが人を殴ったのか、大切なものを自分の手で壊そうとしたのか、真相はわからない。未来永劫、わからない。でももっとずっと深いところで、そのこととあたしが繋がっている気もする。彼がその眼に押しとどめていた力を噴出させ、表舞台のことを忘れてはじめて何かを破壊しようとした瞬間が、一年半を飛び越えてあたしの体にみなぎっていると思う。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』P.146-147
あかりはきっと「わかっていた」のだ。
それでいて「わからない」ふりをした。
「推しがファンを殴った」ことを解釈してしまうと、自分が壊れてしまうのを知っていたから。
“背骨”である推しを、失うことになってしまうから。
推しがアイドルではなく、1人の人間であると認めることになるから。
推しにファンよりも「大切な誰か」がいることを認めることになってしまうから。
だから「わからない」ことにして、今度は自分の手で大切なものを壊そうとした。
なぜ推しは人を殴ったのだろう、という問いを避け続けていた。避けながら、ずっとそのことが引っ掛かっていた。それでも、そんなことが、あのマンションの一室の外から見えるわけがないのだと思う。解釈のしようがない。あのときの睨みつけるような眼は、リポーターに向けたんじゃない、あの眼は彼と彼女以外のすべての人間に向けられていた。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』P.145
これが「なぜ推しはファンを殴ったのか?」の答えだと思う。
「反省しているんですか」と訊くリポーターに見せた強烈な感情のこもった眼は、画面越しの「何も知らない一般人」すべてに向けられたものだった。
きっとそこには、推しのファン(=あかり)も含まれるだろう。
このときから、推しはアイドルとして大切なもの(=ファン)ではなく、自分にとって大切なもの(=婚約者)を守ることを決意したのではないだろうか。
もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』P.144
推しの発言を大方予想できてしまう彼女のことだ。
もしかしたら、推しが「まあ」と答えた時点で、彼がアイドルではなく人になってしまったことを、心のどこかで悟っていたのかもしれない。
推しは大切なものを守るために、ファンを殴るしかなかった
ここまでの内容をまとめると、次のようになる。
- 推しのリポーターへの返答「まあ」についての考察
→ファンを殴ったことを反省していない(正当化できる理由がある) - あかりが知る「推しの性格」
→「大切なものが傷つけられた」ため、ファン殴らざるを得なかった - 引退発表後の推しの住所特定
→ファンが推しの聖域(=プライベート)に踏み入れたことが事件のきっかけ - 推しの同棲疑惑と婚約指輪
→推しにはファンよりも大切な人(婚約者)がいる - なぜ主人公は「推しがファンを殴ったこと」を解釈しなかったのか?
→推しに大切な人(婚約者)がいることを認めることになるから
以上を踏まえると、「なぜ推しはファンを殴ったのか?」の答えは「婚約者を守るために、ファンを殴るしかなかった」と考察できそうである。
この仮説を軸に背景を予想すると、次のようになる。
- ファンの女性は、配達員のストーリーの投稿から、推しの住んでいる地域を特定した
- 住んでいる地域を特定された推しは、さらに恋人(婚約者)がいることも知られてしまった
- ファンの女性は、婚約者に何かしらの危害を加えようとした
- 推しは婚約者を守ろうとして、ファンを殴った
事件の背景については私の想像を多く含むため、もっといろんな解釈があっても良いと思う。
もし他の考察を思いついた方がいたら、ぜひ教えてください!
まとめ:「真実は推しのみぞ知る」
ここまで、私が思う『推し、燃ゆ』の考察を書いてきたが、真相はわからない。解釈のしようがない。
そんなことが、この物語の外から見えるわけがないのだとも思う。
哲学者のソクラテスは「神のみぞ知る」という言葉を残したらしいけど、今回に限っては「真実は推しのみぞ知る」ところである。
文庫版『推し、燃ゆ』には、宇佐見りん氏の「文庫版あとがき」と、金原ひとみ氏の解説が載っています。
より一層『推し、燃ゆ』の世界を深く味わうことができるので、すでに単行本をお持ちの方もぜひ読んでみてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
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