質問ができないときって、きっと誰にでもある。
たとえば、学校の授業中。「何か質問ありますか?」と訊かれても、皆の前で手を上げて質問するなんてできない。
たとえば、偉い人を前にしたとき。こんなこと訊いたら失礼なんじゃないか……と気を遣ってしまう。というか、そもそも緊張で何も思いつかない。
他にも、理解できていないことが多すぎるときや、何を質問したらいいのかすらわからないとき。それに、自分は全く理解できていないのに、周りの人たちはわかっていそうな顔をしているとき。
質問ができないのは、決して自分だけのせいじゃない。
そのときの状況だったり、相手の身分だったり性格だったり。自分の体調だったり、理解度だったり。
そんないくつもの条件がいい感じに重なったとき、初めて「質問ができる」という状態になるんだと思う。
今回は、何も考えずに質問ができていたかつての私と、いろいろ考えすぎて質問ができなくなった今の私の頭の中で何が起こっていたのかを少し考えてみました。
大学の研究室のゼミにて
はるか昔、私が大学生だった頃の話。私は研究室にいた後輩にこう質問しました。
「ゼミで質問するのって難しい?」
私の研究室では、毎週金曜日にゼミ(セミナー)がありました。ゼミでは主に、自分の研究の進捗報告や論文紹介を行っていました。
ゼミというのは、自分のわからないことを発表者や教授に質問して、研究内容の理解を深めるための場でした。
私は先輩という立場上、ゼミでは毎回質問をするようにしていました。
発表をちゃんと聞いていれば、どこかしら疑問に思うところが出てきます。その中でわからないところを質問すればいいだけのこと。
質問するのって、そんなに難しい? 私はそれが疑問でした。
「何を質問したらいいのか、わからないんですよね」
後輩はそう伝えてくれた。
それを聞いて、「これは自分で説明できないなって思ったことを質問したらいいんだよ」とアドバイスをしようと思ったけど、
「そうかぁ、やっぱ難しいよね」
とだけ言って、後輩との会話は終わりました。
それからしばらく経ち、研究室を去って社会人になった私は、会社の新人研修を受けていました。
そこで、かつての研究室の後輩と同じ悩みを抱えていました。
研修中に、質問したいことが思いつかない……!
毎日の研修で、新しいことをたくさん学んでいて、疑問一つも思い浮かばないなんてありえない。自分で説明できないことなんてたくさんあるはず。
なのに、どうしても質問が思いつかない。何を質問したらいいのかわからない。
そう感じたときに私は初めて、研究室の後輩が言っていた「何を質問したらいいのかわからない」という言葉の意味を理解することができました。
どうして質問ができないのか?
どうして私は質問することができなくなってしまったんだろう?
そもそも質問(疑問)はどういうときに生まれて、どういうときに質問できなくなるんだろう?
といった疑問について、自分なりに考えてみることにしました。
「質問」と「疑問」の違い
まず初めに、「質問」と「疑問」という言葉の違いについてですが、こちらの説明がわかりやすかったので引用させていただきます。
疑問は「本当かどうかわからない、真実が何かわからないといった疑いを持つこと」。
「疑問」と「質問」の違い・意味と使い方・使い分け | 違い.site
何かしらの知りたい内容に関しての疑いということになります。
質問は「何かしらの疑いを持ったことに関して誰かに尋ねたりする行為のこと」。
質問というのは疑問を持った時点で、その疑問を解消しようとするときにとる行動ということになるのです。
つまり、疑問とは「わからないことについて疑いを持つこと」であり、質問は「その疑いを誰かに尋ねる行為のこと」ということができそうです。
この違いを踏まえると、「何を質問したらいいのかわからない」というのは「疑問が思いつかない」ということだとわかります。何も疑問に思わなければ、誰かに質問することはできません。
よって、ここからは「頭の中で疑問が生まれるしくみ」について考えていきたいと思います。
新しいことを「理解する」とき
「疑問」の意味は、「わからないことについて疑いを持つこと」でした。では、そもそも「わからない」とはどういうことなのでしょうか?
「わからない」というのは「理解できない」と言い換えることができます。何か新しいことを自分が「理解する」には、まずはその土台となる知識が必要となります。
たとえば、辞書で「ネコ」という単語を調べたとします。ネコかわいいですよね。
広義には哺乳(ほにゅう)綱食肉目ネコ科に属する動物の総称で、狭義には家畜化されたイエネコFelis catusをさす。普通、欧米では前者の、日本では後者の意味で用いられることが多い。(後略)
「ネコ」日本大百科全書(ニッポニカ) – コトバンク
難しい単語がいくつか並んでいますが、要するに「哺乳類の動物なんだな」ということは理解できると思います。
しかし、もし「哺乳類」や「動物」という単語を知っていなければ、この「ネコ」の意味を理解することはできないと思います。
このように、何か新しい言葉や概念を理解するときは、その前提となる「知識」が必要です。
そして、自分にとって新しい情報は、自分の中にある知識と結びついたときに初めて「理解した」という状態になります。
上の図では、新しく得た情報のことを「新情報」、もともと自分の中にあった前提となる知識のことを「旧情報」と呼んでいます。
もともと自分の中にある、既存の知識である「旧情報」と、新しく頭に入ってきた「新情報」が矛盾なく結びついた状態を「理解する」と表現するのだと思います。
”なぜ?”という「疑問」が生まれるとき
以上を踏まえて、次は「疑問」が生まれる仕組みについて考えてみます。
「疑問」というのは、もともと自分の中にある知識(旧情報)と、新しく得た情報(新情報)が矛盾を起こしているときに生まれます。
たとえば、「1 + 1 = 2」であるはずなのに、誰かに「1 + 1 = 1が正しい」と言われたら「なぜ?」と疑問に感じると思います。
これは、自分の中にある「1 + 1 = 2」という旧情報と「1 + 1 = 1」という新情報の2つが矛盾しているために生じた疑問です。
このように、旧情報から新情報を見たときに、そこに矛盾があったらそれが「疑問」になります。
つまり、新しいことを「理解する」のと同様に、「疑問」が生まれるときにも、自分の中の知識(旧情報)が必要となります。
質問ができない人の頭の中
ここまでの説明で、「理解する」にも「疑問を持つ」にも、前提となる知識(旧情報)が必要であることが分かりました。
これは逆にいうと、前提となる知識がなければ、何も理解できないし、疑問も生まれないということになります。
たとえば、多くの方が学校の授業を受けているときに「何が分からないのか分からない」という状態を経験したことがあると思います。
これは、授業で説明された内容を理解するのに必要な知識(旧情報)が不足しているため、新情報と旧情報がうまく結びつかず、「理解できていない」状態であるといえます。
また、旧情報が不足しているため、旧情報の視点から新情報を見ることができません。そのため、新情報と旧情報との間に矛盾を見つけることができず、「疑問」が生まれることもありません。
何も理解できないし、疑問も生まれない状態というのはこうして出来上がっていきます。
前提知識が不足している状態で、それでも尽きることなく新しい情報が追加されていく。
そうしてだんだんと、頭の中が新情報で飽和していく。
これが質問ができない人の頭の中の状態です。
愚問のススメ
すこし話題が逸れますが、「愚問」という言葉をご存じでしょうか。
もしかしたら、映画やドラマで「愚問だな」というセリフを聞いたことがあるかもしれません。
ぐ‐もん【愚問】
「愚問(ぐもん)」デジタル大辞泉 – コトバンク
愚かな質問。また、自分の質問をへりくだっていう語。「愚問を発する」
要するに、的外れなことや当たり前のことを質問するのを「愚かな質問」、つまり「愚問」というらしいです。
しかし、どんな質問を「愚問」と言うかは、その時の状況によります。
そして、それを誰が言うか、というのも重要です。
湯川秀樹と愚問
思えば、私もこれまでにたくさんの愚問を生み出し、恥ずかしい思いをしてきました。
質問ができない状態というのは、疑問が思いつかないときに限った話ではありません。
これを聞くとバカだと思われるんじゃないか、他の人には当たり前のことなのではないか、そもそも陰キャの自分が手を上げて質問なんてしたくない……。
そんな不安と闘いながら、「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥」と心の中で唱えて、勇気を振りしぼってやっと質問できる。
質問した内容が、「良い質問」だったときもあれば、「愚問」だったときもあります。
そして、一時の恥をかいた日に、いつも読んで励まされる文章が以下の記事です。
これは『独学大全』で有名な読書猿さん(@kurubushi_rm)のブログ記事です。内容は、日本人初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹が、研究発表の場で必ず質問をして、それがほとんど愚問だったというお話です。
晩年の湯川は、駆け出しの若手が初めてやる研究発表などにも、ひょっこり顔を出すことがよくあった。
秀樹のばか-日本初のノーベル賞受賞者の愚問はいかに人々を活気づけたか? 読書猿Classic: between / beyond readers
顔を出すだけならまだよいが、いつも必ず質問をする。
質問するだけならまだよいが、それが決まって愚にもつかない質問なのである。
ノーベル物理学賞の大先達からの質問に、ルーキー物理学者はほとんどパニックに駆られるが、しかも質問内容が目が点になるようなものなので、別の意味でも度肝を抜かれる。
何とかその質問に、おそらく会場の誰もが分かりきった答えを返すと、湯川ははっと気付いたように
「あかん、またやってしもた」
と頭を抱え、己が発した愚問に大いに落ち込むのである。
私が想像していたノーベル賞受賞者はもっと、天才で何でも分かっていて、質問するとしても発表者に対して間違いを指摘する程度なのだと想像していたので、こんなに人間味のあふれるエピソードがあったとは思いませんでした。
一流の研究者でも、私たちと似たようなところがあるんだと思うと少し安心できます。
しかし愚問も、とことん数打つうちには当たる。
秀樹のばか-日本初のノーベル賞受賞者の愚問はいかに人々を活気づけたか? 読書猿Classic: between / beyond readers
それも、当たりどころはとことん悪く、今度は発表者のみならず会場にいる誰もが気付かなかった大愚問だったりする。
会場の空気がざっと変わる。
的には当たらぬが、その土台をガツンと震わせる。
ちょっと待て、今のどうなんだ? もしかしてこうか? そんな馬鹿な話があるか。ああでもない、こうでもない。
場は騒然となり、侃侃諤諤の議論が巻き起こり、時には新しいアイデアだって生まれたりする。
愚問とは、あくまでもその場における「愚かな質問」のことです。
状況が違えば、愚問であっても「愚かな質問」ではなくなることもあるし、かえってそれが本質を問う「良い質問」になることもあります。
湯川秀樹という大科学者の質問ゆえに、たとえ愚問であっても許されていたのかもしれませんが、私は誰の、どんな質問であっても、そこには価値があると思っています。
もし、「今日のあの質問は愚問だったな……」と思うことがあったとしても、「まぁ、あの湯川秀樹でも愚問を連発してたらしいから、この程度はどうってことないか!」と開き直ればいいと思っています。
だって「愚問」も、立派な「質問」なのですから。
まとめ:積極的に「バカな質問」をしましょう
今回は、「質問ができない」という状況を説明するために、質問ができない人の頭の中で起こっていることを整理して、「疑問が生まれないメカニズム」について考えました。
そして、湯川秀樹先生の「愚問」のエピソードも踏まえて、私から最後に一言。
バカな質問をしましょう。
良い質問をする必要はありません。くらだない質問で全然かまいません。むしろ、くだらない質問の方が良いです。
なぜなら、最初にくだらない質問をした方が、その次の人が質問しやすくなります。
それは、最初に質問した人が「質問をしてもいい雰囲気」を作ってくれたからです。その雰囲気が、私のように質問するのに抵抗がある人たちに勇気を与えるのです。
自分は良い質問をしなくてもいい。
自分がくだらない質問をすることで、他の誰かがそれよりも良い質問をしてくれる。
そう思うと、少しだけ心が軽くなる気がします。これでもダメそうなら、あの湯川先生を思い出してください。
それから思う存分、バカな質問をしてください。