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【感想】日常 / 非日常の境界線 (『神さまがまちガえる』を読んで)

漫画
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この漫画に出てくる街は、いま住んでいる場所に似ている気がした。

都会から少し離れたところで、商店街があって、緑もところどころで生い茂っている。

引っ越してきてもう半年経つけど、住みやすくていいところだと思った。

ただまぁ夏だからか、それともこういうご時世だからか。

一日に何度も救急車の音が聞こえてくると、いろいろ考えてしまうこともある。

以下の文章は、2022年8月にnoteに公開したものです。

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非日常×日常ストーリー

世界はいつも どこかが おかしい

『神さまがまちガえる(1)』仲谷鳰

こんな書き出しで始まる漫画を最近読んだ。

“百合マンガの金字塔”とも称される『やがて君になる』の作者・仲谷なかたににお先生の最新作神さまがまちガえる

「非日常×日常」をテーマとしたこの漫画は、あらすじを読むだけでも、けっこう面白い。

世界はいつも、どこかがおかしい。 朝起きたら街がジャングルになっていたり、世界中の人が迷子になったり……周期性例外事象、通称”バグ”に満たされたこの世界では、非日常的な事象が日常的に発生する。シェアハウスの大家にして”バグ”に心躍らせる研究者・かさねと、彼女とひとつ屋根の下で暮らしながら助手を務める中学生・紺は、今日も新たな”バグ”を見つめる――。 『やがて君になる』の仲谷鳰最新作! 変てこな世界で生きる人々の奇妙な毎日を描く、非日常×日常ストーリー!!

神さまがまちガえる | 月刊コミック電撃大王公式サイト

ジャンルは「日常系×SF×おねショタ」1といった具合だろうか。

SFといっても、どちらかと言うと「サイエンス・フィクション」というよりは、「すこしふしぎ」の方が近い気がする。

人類が超能力を使えるようになったとか、エイリアンが地球を侵略するとかではないけど、ある日突然、人が空を歩けるようになったりとか、中間テスト直前にツチノコが現れたりとか、そういう感じのお話。

そんな「すこしふしぎ」な世界に住む、好奇心旺盛なお姉さんと面倒見の良い少年(とシェアハウスの住人たち)の日常を描いた物語である。

  1. 「おねショタ」とは、年上の女性(おねえさん)と少年(ショタ)のカップリングのこと。 ↩︎

バグった世界で続く日常

この漫画を読みながら、「日常って一体なんなんだろう」と疑問に思った。

仲谷鳰先生のインタビュー記事に、次のようなコメントがあった。

(前略)あと構想を膨らませていた期間中は、ずっと新型コロナが流行している状況下だったんですね。今でこそこの状況に慣れてきましたけど、最初の頃は「なんかすごいことが起きている」みたいな感覚だったじゃないですか。でもとんでもないことが起こっている一方で、それでも日常生活は続くんだなということも感じて。そのときに変なことが起こっている世界を舞台にした日常ものが描けるかもしれないと思ったんです。

コミックナタリー

新型コロナの流行によって、私たちの日常は一変した。

日常が非日常に変わったとき。
当たり前がたり前じゃなくなった瞬間。
私たちはそれらを目の当たりにした。

外に出るときはマスクをつけて、仕事ではリモートワークが当たり前。
旅行にも行けず、海外なんて夢のまた夢。

それでも私たちの日常は続いていく。

ひとつのバグは数日から数週間続いて
終わると同時に次のバグが始まる
世界がまともな瞬間なんて無いのです

『神さまがまちガえる(1)』仲谷鳰
(画像はコミックナタリーより)

日常が非日常に変わる瞬間、あるいはその逆

「最近感染者数見んようになったわ」
「もう気にしてもしゃあないしねぇ」

公園を歩くおじさん二人の会話が耳に入る。

非日常の上に成り立つ日常。

それはいつか当たり前になって、普通の日常として受け入れられる。

非日常が日常に変わるとき。人が非日常に慣れたとき。

またどこからか非日常がやってきて、当たり前の日常を脅かすのだろうか。

「世界がまともな瞬間なんて無いのです」

そんな声が聞こえてくる気がする。

「なんでもないような日常」が本当の「非日常」なんじゃないか

庭に集まって皆でバーベキューをしたり 、家の屋根から誰かと一緒に日の出を見たり。

学校の屋上で先生にいたずらしたり 、友達と全力でツチノコを追いかけたり(これは違うか)。

こういった日常の延長線上にあるような「なんでもないような出来事」が、実は本当の「非日常」だったりするんじゃないだろうか。

というのは少し陳腐な気もするけど。

ただ最近知ったのは、自分の身を置く環境が変化すれば、それは非日常の連続だということである。

例えば、関東の夏の暑さは異常だし、駅は広すぎて迷子になるし、それに都心は人が多すぎる。これはもう私にとっては一種の”バグ”である。

朝決まった時間に起きて支度し、決められた時間だけ働き、それ以外の時間だけ自由に過ごすことが許される今の生活。

これもまた、少し前まで怠惰な学生生活を送っていた私にとっては、非日常以外の何物でもない。

この生活もいつか日常となって、そして学生時代がいかに非日常だったかということに気付くのだろう。

日常と非日常の境界線。その上に、自分はいま立っているような気がする。

バグった世界を受け入れて

ここまでふわふわと「日常とは何か」について考えてきて、次の投稿を思い出した。

「退職してから夫婦で楽しむ」も、同じ理由でたいていうまくいかない。
60歳の自分と30歳の自分は異なる人間だと思いなさい、と、わしは祖母に教わった。
「人生は若いうちに楽しまなければダメよ。年を取ってからは、頭の本棚にある若いときの記憶を整理するのが楽しいのよ」
多分、本当だとおもう。(後略)

James F. ガメ・オベール(@gamayauber01)

歳をとるにつれて、日常は変化していく。

だんだんと目に映る景色が変わっていく。

身体の変化。環境の変化。時代の変化。エトセトラ。

歳をとるにつれて、自分が変化していく。

今ある日常は、いつかの自分にとっての非日常。

昔を振り返っては当時の感情に浸って、美化された過去の思い出に酔いしれながら、記憶の本棚を丁寧に整理していく。

いつかコロナが収束して、マスクなしの生活を取り戻して、海外にも気軽に行けるようになって。

学校の部活も文化祭も修学旅行も、以前のようにできるようになって。

今回のパンデミックが教科書に載って、「3密」とか「ソーシャルディスタンス」とかも死語になって。

そんな時代があったことも知らない子どもたちが、すくすく育っていって。

「昔はこんな大変なことがあったんだよ」って、子や孫に話せるときがやってきたりして。

世界がどれだけ大変なことになっていても、自分にできることは限られている。

人が何かを間違えることもあれば、神さまだってまちガえる。

いま目の前で起こっている非日常も、この漫画の”バグ”みたいに受け入れて、皆で協力しながら楽しんで乗り越えていけたら、

とても素敵なのになと思った。