「詩」と「ポエム」の違いとは何か?
たとえば、金子みすゞの『わたしと小鳥とすずと』は「詩」として小学生の国語の教科書に載っている。
それでは、日めくりカレンダーに載っている相田みつをの「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」は、「詩」として教科書に載ることはあるのだろうか?
それとも、こういった大衆向けの詩のことを「ポエム」と呼ぶのだろうか?
「詩」と「ポエム」の違いを明確に定義することは難しい。
ましてや、詩人でもない私が「詩」について語るなんておこがましい。
しかし、それを承知の上で、今回は「詩」と「ポエム」の違いについて考察していきたいと思う。
「ポエム」の辞書的な意味
そもそも、英単語の「poem」の意味は、以下の通りである。
poem
Eゲイト英和辞典「poem」 | Weblio英和辞書
(1編の)詩(poemは具体的なひとつひとつの詩の作品でpoetryは総体的に詩という場合に用いる)
つまり、「poem = (1編の)詩」である。
一方で、カタカナで書かれる「ポエム」の意味は以下の通り。
ポエム(poem)
デジタル大辞泉「ポエム」 – コトバンク
1 1編の詩。韻文作品。
2 詩的な文章。詩的だが中身のない文章・発言を揶揄していうこともある。
この場合、1が上で述べた「poem = (1編の)詩」を意味している。
ここで重要なのは、2の「ポエム=詩的だが中身のない文章・発言」という意味である。
「詩的だが中身のない文章・発言」が何を意味するのか、さらに深堀りして考えていきたいと思う。
小田嶋隆氏のポエム考
コラムニストの小田嶋隆氏は『ポエムに万歳!』にて、「詩」と「ポエム」について考察している。
小田嶋氏は、「詩」が高尚で特権的かつ特別な文芸であるとは考えておらず、また低俗な詩を「ポエム」と呼んでいるのではないと説明した上で、次のように述べている。
詩は、詩として書かれたものすべてを指す言葉だ。だから、ダメな詩でも、くだらない詩でも、理解困難な象徴詩でも、詩が詩であることに変わりはない。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』P.21
一方、ポエムは、詩ではない。
散文でもない。手紙文でも声明文でも記事文でもルポルタージュでもない。
そして、ポエムについて以下のように説明している。
ポエムは、書き手が、詩であれ、散文であれ、日記であれ、手紙であれ、とにかく何かを書こうとして、その「何か」になりきれなかったところのものだ。その、志半ばにして、道を踏み外し脱線してしまった文章の断片が、用紙の上に(あるいは液晶画面の上に)定着すると「ポエム」になる。私は、そのように考えている。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』P.21
詩とは、たとえくだらなくても、理解困難であっても、詩として書かれたものは「詩」と呼ばれる。
一方で、「ポエム」(という文体)は、書き手が何か(詩・散文・日記・手紙など)を書こうとして、その「何か」になりきれなかったものである。
小田嶋氏は、詩とポエムの関係を次のように喩えている。
ポエムは、強いて定義するなら「詩になり損ねた何か」、あるいは「詩の残骸」と呼んでしかるべきものだ。両者の関係はバターとマーガリンの関係に似たものだ、と言えば良いのかもしれない。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』P.36
たしかに、バターとして作られたものは、それがどれだけ味が悪くても「バター」であることに変わりはない。
しかし、マーガリンは決して「バター」ではない。あくまで「バターに似せたもの」がマーガリンである。
この喩えを踏まえると、詩として書かれたものは「詩」であるが、ポエムは詩ではない、という小田嶋氏の主張が理解できるかと思う。
「ポエマー」は和製英語である
「ポエムを読む人」という意味で「ポエマー」という言葉が使われることがあるが、実はこれは和製英語である。
「ポエマー」について、小田嶋氏は次のように説明している。
「ポエマー」という言葉は、辞書には載っていない。繰り返すがモロな和製英語だ。「ポエム= “poem”」が「詩」の単数形であることはご存じの通りだが、「詩人」は、「ポエット= “poet”」になる。ポエムの末尾に「er」をつけることでそれを安易に人格化した呼称である「ポエマー」は、だから、「似非詩人」ぐらいなニュアンスで使われている。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』P.29
「ポエット=詩人」であるのに対して、「ポエマー」を「似非詩人」と表現するのは、言い得て妙だと思う。
また、「似非」とは「似て非なるもの」という意味であり、バターとマーガリンの喩えがよく反映されている。
ちなみに、「ポエムっぽい」を意味する「ポエミー」という言葉(スラング)があるが、これも和製英語である。
ピクシブ百科事典によると、「ポエミー」よりも本格的なものは「ポエティック」と言われるそうだ。
「ポエム化」について
『ポエムに万歳!』の巻末には、小田嶋氏と麻生哲郎氏(CMプランナー、作詞家)との対談が掲載されている。
そこで小田嶋氏は「ポエム化」について、次のように説明している。
小田嶋 ポエムというのは、非常に位置付けが曖昧なもので、駄目な散文がポエムになるということも、駄目な詩がポエムになるということもありえます。狙ってポエムにしようと思って書いているんではなく、何かを狙った結果、フォークボールがすっぽ抜けて棒球になるのと同じで、するりとポエム化していく。ちゃんとコースを狙ったはずのスライダーが、曲がりきれないでど真ん中に行っちゃうとか、何かそういうものですよ。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』P.241
これは、前述した「書き手が何かを書こうとして、その何かになりきれなかったもの」を野球の球種で喩えたものである。
小田嶋氏は「ダメな詩でも、詩が詩であることに変わりはない」と述べていたが、ここでは「駄目な詩がポエムになるということもありえる」と書かれている。
つまり、書き手が「詩」を書いたつもりでも、受け手の捉え方次第では「ポエム」だと感じることもある、ということなのだと思う。
また、小田嶋氏は「書き手が何かをごまかそうとする時、文体はポエムに近似する」と述べている(P.24)。
本来の「詩」では、意味的なブレやニュアンスの多様性を持つ、振れ幅の大きい言葉が使われます。ところが「ポエム」では、何か意味を曖昧にしておいて、「この辺のこんな感じ」という提示の仕方で、つくる側がちゃんとつくり込まずに「ぽいよね」みたいなところで、安易につくられています。雰囲気なんでしょうね。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』P.239
書き手が何かをごまかそうとする(曖昧にしようとする)と、それが何であれ「ポエム化」してしまうとのこと。
つまり、ポエムは自分の伝えたい内容を明確に言語化することなく、曖昧に(雰囲気で)伝える文体であると解釈できそうである。
テーマは「自分」という存在
この対談において、麻生氏は「詩」と「ポエム」の違いを次のように語っている。
麻生 詩は、劇的に行間の幅が増えますね。で、ポエムが詩と違う点は、感覚的に言って、自分という存在そのものがテーマになってしまっていること。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』P.240
これに加えて麻生氏は「伝えたい」はあるけれど、「伝わるか」という検証が一切なされていない感じがすると述べている(P.241)。
これについて小田嶋氏は、次のように発言している。
小田嶋 (前略)思いというのは、思っている側が言っている言葉で、受け止める側のことを考えていない言葉ですよね。それが、ポエムではとても尊重されている感じを受けるんですよ。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』P.241-242
つまり、「詩」というものは本来「受け手が感じ取るもの」であるが、「ポエム」は「書き手の思い」が尊重されているとのこと。
以上をまとめると、ポエムは「自分という存在」がテーマとなっており、それを誰かに「伝える」ためではなく、自分の思いを表現することに重きが置かれている。
そういう意味では、自分が主体の「自己完結した表現方法」ともいえそうである。
note『なぜポエムはポエムであり、詩は詩なのか。』を読んで
今回、「詩」と「ポエム」の違いを調べている中で、非常に参考になるnoteを見つけたので、ご紹介させていただきます。
このnoteの中で「ポエムとは何か?」について、次のように書かれている。
ここで急に、ずばりと言い切ってしまうと、ポエムとは、未成熟ということなのである。
なぜポエムはポエムであり、詩は詩なのか。|おどりながらあるく
未成熟を未成熟として恥じない態度。
未成熟にむしろ価値を置く文化。
「ポエム」とは「未成熟であることに価値を置く文化」である。
この「未成熟」というキーワードは、「ポエム」のニュアンスを表現する上で大変重要である。
小田嶋氏の「書き手が何かを書こうとして、その「何か」になりきれなかったもの」という技術的な未成熟さや、「自分の存在」における人間的な未成熟さを表現するという点において、「未成熟」という言葉で「ポエム」を言い表せるのではないかと思う。
また、「詩」と「ポエム」については次のように述べられている。
ポエムとは詩であり、詩はポエムである。しかし、ポエムはあくまでポエムであり詩ではなく、詩は永遠にポエムではない。
なぜポエムはポエムであり、詩は詩なのか。|おどりながらあるく
辞書的な意味では「poem = 詩」ではあるが、「ポエム=詩」ではない。
小田嶋氏の喩えを借りると、「マーガリンはあくまでマーガリンでありバターではなく、バターは永遠にマーガリンではない」ように、「ポエム≠詩」という意味なのだと思う。
ポエムとは何か?(個人的な考察)
ここまでの内容を踏まえて、個人的に「ポエムとは何か?」を考察したいと思う。
まず辞書的な意味では、「poem」は「1編の詩」を意味する英単語である。
しかし、カタカナで書かれる「ポエム」には「詩的だが中身のない文章・発言」という意味が含まれている。
この「詩的だが中身のない文章」というのは、どういう意味か?
個人的な解釈では、(上のnoteの内容を踏まえて)ポエムとは「未成熟であることに価値を置く自己完結した文体」のことであると思う。
そして「未成熟」という意味には、「技術的な未成熟さ」と「人間的な未成熟さ」の2つが含まれていると考える。
ポエムの「技術的な未成熟さ」
「詩」は、「言葉にならない思いや感情・感覚を言葉を使って表現したもの」だと思う。
ゆえに詩人(ポエット)は、言葉に対する感性を磨き、「言葉にならない思いを伝える技術」を洗練させる。
一方、ポエムを詠む人(ポエマー)は、自分の思いを誰かに「伝えたい」という気持ちはあるものの、それが相手に「伝わるか」よりも「ただ表現すること」に重きを置いている。
そうして綴られた文章は、詩的ではあるが曖昧な表現が多く含まれており、誰にも伝わらない雰囲気だけの文章になってしまう。
小田嶋氏の「書き手が何かを書こうとして、その何かになりきれなかったもの」が生まれる原因は、この雰囲気だけが先走った曖昧な表現にあると思う。
ポエマーは「自分の思いを表現すること」を大切にしているため、詩人にとって重要な「言葉で伝えること」を疎かにしていることが、ポエムにおける「技術的な未成熟さ」として捉えられるのではないだろうか。
そういう意味では、ポエムは自分の中だけで閉じている「自己完結した作品」といえるのかもしれない。
ポエムの「人間的な未成熟さ」
芸術作品には必ず、作者が伝えたいテーマ(主題)が存在する。
そしてポエムの場合は、麻生氏が言うように「自分という存在そのもの」がテーマとなっている。
これについて、より厳密にいうと「”未成熟な自分”という存在」がテーマになっていると思う。
これが、ポエムの「未成熟」という意味に含まれる「人間的な未成熟さ」である。
ポエムという文体に曖昧さが含まれるのは、はっきりと形が見えていない自分の思いや感情を、技術的に未成熟なまま表現しているからである。
この「はっきりと形が見えていない自分の思いや感情」というのは、苦しみや葛藤、あるいは喜びや幸せだったりする。
これらは誰もが持ちうる感情であり、この「人間的な未成熟さに価値を置く文化」こそがポエムの本質なのではないかと思う。
上でご紹介したnoteでは、ポエムを「未成熟を未成熟として恥じない態度。未成熟にむしろ価値を置く文化」と表現していた。
「ポエム」というのは、詩という形式に限らず、作品と作者が「未成熟であること」に価値を置いたときに現れる。
自分の未成熟な部分を見せるのだから、それに恥ずかしさを感じるのは当然のことだと思う。
むしろ、未成熟であることを恥ずかしいと思わないこと、未成熟であることを互いに認め合うことがポエムの醍醐味であり、それがポエマー同士で共感や感動を呼び起こしているのではないだろうか。
その性質ゆえに、ポエムはしばしば「自分語り」になってしまったり、誰にも伝わることのない「自己完結」した文章になったりすることもある。
そしてときには、外部の者から見るとポエムに「共感性羞恥」に似た感覚を抱くこともあるだろう。
しかし、それらすべての「未成熟」を作者と読み手が肯定し、「未成熟のまま」受け入れるのが「ポエム」という文化なのだと、私は思う。
まとめ:詩とポエムの境界線
以上、詩とポエムの違いについて書籍、noteを参考にしながら、個人的な考察を書いてきた。
しかし実際には、詩とポエムを明確に区別することはできないと思っている。
小田嶋氏は『ポエムに万歳!』にて、次のように述べている。
もともと、「詩」と「ポエム」はそんなにかけ離れたものではない。境界領域にはピンク色のグレーゾーンが広がっている。厳密に区別すれば、ここに挙げた金子みすゞの作品はたぶん「詩」で、相田みつをの作品は「ポエム」ということになる。が、違う分類をする人もいるはずだ。それほど、区別はつけにくい。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』P.36
(中略)
どっちにしても、詩とポエムの両者を享受する心の領域は、ほぼ同じだ。
何を「詩」と感じ、何を「ポエム」と感じるかは、読み手によって違ってくる。
その文章と出会うタイミングによっても、それが詩かポエムかという見え方は変わってくるのだと思う。
詩であれポエムであれ、その境界線が曖昧であるのも、どちらも言葉にはならない思いを扱っているからかもしれない。
つまりはたぶん、こういうことだ。
詩とポエムとそれから私。みんなちがって、みんないい。